ラブコール

生きる・はたらく・表現する

「母親やめたいぞ!」という叫びの裏にあるもの

 「母親やめたいぞ!」
 ある日どかんと爆発するように湧き上がってきた感情。叫びだしたいくらいの衝動が突き上げてきた。
 こんな風に思う私は悪い母親だろうか。

 

 「母親やめたいぞ!」の裏側には、育児に付随するもろもろに対するストレスがあった。ある日自分の体に宿った生命を腹の中で大事に守り、やがて生まれてきた赤ん坊を必死に育てる母親への世間の目はけっこう厳しい。
 「母親なんだから」。この一言を前に、思いを飲み込んだ経験を、いったい何人の母親が何回してきたことだろう。

 

 私が「母親なんだから」と我慢してきたもの。制度や環境の不足も含めて許されないと思ってきたもの。もちろんその中には私自身の思い込みも含まれるが、私一人で何かを我慢することはあり得ない。私と相手だけでも足りない気がする。第三者という社会があって、我慢は生まれる。

 

 現代において、往々にして育児は孤独な営みだ。ひとり親や、パートナーが育児を顧みなかったり物理的に参加できない環境にあるワンオペの親にとってはより厳しい営みだ。親たちはいつも「寂しさ」を感じている。それは、「母親」であるだけでは埋められないものだ。だからこそ、たまに思いが突き上げる。「母親」という役割を脱ぎ捨てたい、と。たとえば、

 

 遊びに行きたい!

 飲みに行きたい!

 それも最後まで楽しみたい!

 

 こういう思いは母親なら我慢して飲み込むべきものだろうか。世の男性は仕事の息抜きで飲み会に参加しているというのに、母親である女性たちは、息抜きをするのにも、子どもを預けてあんなことをしている、と思われてしまう、と他者の目を気にしないといけないものだろうか。

 

 私はこう思う。子を思うからこそ、(母)親もまた健やかでいたい。それには我慢など不要だ、と。他者の目を気にせず思いきり息抜きして、自身もハッピーでありたい。

 

 私はいい子じゃないぞ!
 人の目なんか気にしたくないぞ!
 母親だって自由にしたいぞ!

 

 人は我慢すると病んでいく。他者の視線を簡単に変えることはできないが、それを気にせず自由に振る舞うという選択は誰にだってできる。だから、制度や環境の不足を打開していく前段階として、まず叫ぼう。

 

 私はいい子じゃないぞ!
 人の目なんか気にしないぞ!
 母親だって自由だぞ!

 

 私は、あなたは、悪い母親なんかじゃない。私の、あなたの、したいことは決してわがままではない。そんな風に思いこまされた母親たちを苦しさから救うために、思いきりしたいことをできるように、母親たちの底知れないエネルギーのもとを無駄にしないために、制度や環境の不足をどう打開していこうか?