ラブコール

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益田ミリ『言えないコトバ』

  口に出しているコトバよりも、あえて口に出していないコトバのほうが、その人物を知ることができるんじゃないだろうか?

『言えないコトバ』は、『すーちゃん』(私はまだ読んでいない)を書いた益田ミリさんが、ちょっと口に出すのは抵抗がある、人が使っていると気になってしまう、といった言葉について書いたエッセイ集です。

言えないコトバ (集英社文庫)

言えないコトバ (集英社文庫)

 

 使いたくない言葉や、その言葉を使っている自分に気づいたら自分のいる環境などを見直した方がいい、と私が思う言葉があります。たとえば著者と同じように、「つかえない」という言葉を使いたくないと私も思っています。著者は

たとえ、苛立ちに任せて口にしているだけであっても、こういうコトバを使いつづけていると、それが自分の考え方として沈殿してしまうのではないか。わたしはあるとき、ゾッとしたのだった。

と書いています。この感覚、とても理解できるなあ。

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私はとあるところで働いていたとき、次第に、それも自然に「つかえない」という言葉を使うようになっていきました。

いま振り返ると、人を「つかえない」と断罪したような切り捨てたようなつもりになることで、思うようにならない自分への不満アレコレを解消しようとしていたのだと、私は思います。

だけど、そんな言葉を口にしてスッキリするのはほんの一瞬、口に出したその瞬間だけ。時間に換算するとおそらく1秒にも満たなかったです。そしてそれはすぐに罪悪感のようなものに代わり、滓のように自分の中に溜まっていきました。

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いまなら、なんてダサいことをしていたのだろう、と感じます。

じゃあ、なぜいまは「つかえない」なんて滅多に使わないで済んでいるのでしょうか。おそらく、環境が変わったからです。

だけど私はそのとき勤めていた会社が悪い、などと言うつもりはないです。同じ会社に勤めていたとしても人に対して「つかわない」なんて言わない人はたぶんたくさんいるからです。ただ「私」がそこにいることはふさわしくなかった、向いていなかった、ということなのだと。

使いたくない言葉を使っている自分に気づいたのなら、それは何らかのサインだと思うといいように思います。何のサインなのか、自分なりに考えて、何かを変える必要があるのか、どのように変える必要があるのか、そういうことに鈍感にならずに生きたいです。